【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =049=

2017-11-09 06:16:13 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆  北極点単独行—-冒険家にとっての記録 =5/5=  ◇◆   

 ほぼ同時に出発した人びとが、目的地に先に到着した。 口惜しい、という感情が湧くのはごく自然のことかもしれない。そこまでは端から見ていても、推察の範囲内にある。 口惜しいなんて思うのは愚かしいよ、と植村を批判する気にはなれない。 そんなふうに思いながら、冒険家にとって記録とは何なのだろうか。と私は改めて考えてしまった。 植村の北極点単独行は、北極探検史上どのような位置にあるのか。

 北極点に初めて到達したのは、先にもふれたように、1909年、アメリカのロバート・ピアリである。(フレデリック・クックは自分のほうが先、と主張したが、現在ではピアリの到達が定説になっている。) ピアリ以後の北極点到達をざっと見てみよう。

 1926年、バード(アメリカ)が飛行機で北極点往復。 /  1958年、アメリカの原子力潜水艦ノーチラスが北極点を通過して北極海を横断。 /  1968年、アメリカのプレーステッド隊がスノーモービルで。 /  1969年、イギリスのハーバート隊が犬橇で。 /  1971年、イタリアのモンジーノ隊が犬橇で。 /  1978年、日大隊が犬橇で。同年、植村直己が犬橇、単独で。 ついでに記しておくと、79年、ソ連隊がスキーによって。 87年、風間深志がバイクによって、北極点に到達している。

 こうしてみると、植村の単独、犬橇での到達は、単独という点がひときわ光彩を放つ記録であることがわかる。 「単独で」という冒険は植村以前に誰もやりとげていない。 まぎれもなく植村の偉業である。

 しかし別の角度から見ると、それまで誰もやっていないことの実現に価値を置く冒険家に(現代の冒険家に)、めざすべき行動の範囲はきわめて狭くなっているのは事実なのである。 「犬橇による単独行」しか、誰もやらなかったことは残されていなかった、ともいえるのである。

 20世紀に入って、世界の地理上の空白は北極と南極ぐらいしか残されていなかった。 南極点に誰かが立ってしまえば、「初めて」の「初」は、もう残されていない。 わずかに「単独であること」が「初」に結びつく。 現代の探検家あるいは冒険家のやりにくさ、がそこにはっきり見えている。 そう考えると、植村にとっては、長年の夢である南極も含めて、残された数少ない「初」を実現するのは時間とのあらそいでもあった。 「初」がみな無くなれば、冒険のあり方が大きな方向転換を余儀なくされるだろう。 植村直己は、ちょうどその転換点に立っていた男であるともいえる。

 北極圏を舞台にした、西洋人の探検の歴史を思い返してみると、その最初の動機は欲得ずくであった。 大航海時代に、スペインとポルトガルに東洋への航路を独占されて、イギリスとオランダは北まわりに中国に達することを考えた。 王室の支援を得て、北西航路、北東航路をひらくための船団がたびたび組まれて、一時は流行の観をなした。 そして欲得ずくではあったけれど、北まわり航路の探索には、やはり人間が未知なるものを手にしたいという冒険心が働いていたことも無視できない。

 スペインとポルトガルが、南まわりで東洋に達する制海権を失うと、北まわり航路への情熱が冷えこんでしまう事態もあった。そして19世紀になると、経済的利益以上に、北極圏はどうなっているのかという知的好奇心から(あるいは冒険心から)、氷の海に乗り出していく冒険家が数多く出現した。数多く出現して、数多くが悲惨な死を迎えた。

 そのなかには、フラム号を氷に囲ませて、氷の流れに乗って北極点に到達するという、驚くべき発想で航海(?)を実現したノルウェーのナンセンがいる。しかし氷の流れは北極点をかなり大きく外れて、試みは成功しなかった。

 また、16世紀以来延々とつづいた、北西航路の開拓に、ついに成功したノルウェーのアムンゼンがいる。アムンゼンはバフィン湾からカナダ、アラスカの北極圏を通過し、ベーリング海峡に到達した。1906年のことである。

 植村直己は、16世紀以来、北まわり航路を探し求めた冒険者たちがつらなる長い列の、いちばん末端に位置している。いちばん最後ではあったけれど、「単独であること」が、植村をその位置につけた。

 私の勝手な思いこみでそういうのではない。北極点グリーンランド単独行を無事成功させた翌年(1979年)2月、植村はイギリスのバラー・イン・スポーツ賞を受賞した。この大きな賞の受賞が、植村の位置を自ずと物語っている。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=サー・クリス・ボニントン(2/2)

クリス・ボニントン :  主な登攀歴 / 遠征隊長

1970 アンナプルナ1峰南壁 (ドゥーガル・ハストンドン・ウィランスが南壁初登頂、イアン・クラフが死亡) / 1972 エベレスト南西壁敗退 / 1975 エベレスト、5人が南西壁初登頂 (ダグ・スコット、ドゥーガル・ハストン、第二次登頂隊ピーター・ボードマン、パルテンバ・シェルパ、ミック・バーク)、バークが死亡 / 1978 K2西壁敗退、ニック・エスコートが死亡 / 1982 エベレスト 初の北東稜完登に挑むが敗退、ピーター・ボードマンとジョー・タスカーが死亡 ※ボニントンは隊長として参加したこれらの遠征では、頂上には達していない。

動画資料Sir Chris Bonington at 80 years old =クリック➡

https://youtu.be/feiPn7pcOBY

動画資料Sir Chris Bonington Reflects On A Life Of Climbing =クリック➡

https://youtu.be/S1fwwlt-PpU

=上記本文中、変色文字(下線付き)のクリックにてウイキペディア解説表示=

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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